時間よ止まれ。お前はあまりに美しい/小池 彰(世界子ども通信「プラッサ」代表)

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ケニアのストリートチルドレンを描いた作品『チョコラ!』の完成直前試写会に参加させていただいた。"チョコラ"とは、路上で生活するストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちへの蔑称だそうだ。けれど作品を観れば、なぜタイトルを『チョコラ!』としたかがわかっていただけるだろう。

昨年夭折した佐藤真監督の『阿賀に生きる』をご覧になった方もいらっしゃると思う。新潟水俣病を生んだ阿賀野川に生きてきた人々の暮しを、ともに生活しながら撮りあげた作品だった。そのカメラを回し、佐藤監督とともに作品を完成させたのが、今回紹介する『チョコラ!』の監督、小林茂さんだ。

1996年、ウガンダのストリートチルドレンと呼ばれている子どもたちをフィルムに収め、新宿で写真展を開催したとき、その子どもたちの「美しさ」に圧倒された。誤解を受けるかもしれない。子どもたちは過酷な状況の中で生き抜こうとしている。それを「美しい」と表現することは不謹慎かもしれない。けれど小林さんの写真は、そうした子どもたちの「美しさ」を表現していた。「トゥスビラ――希望」という写真集も発行されている。その後、北海道の炭鉱を舞台とした映画『闇を掘る』の撮影を担当。そのとき出会った、障がい児も健常児もともに過ごせる学童保育所「つばさクラブ」の記録『こどものそら 三部作』を監督。また、重度障がい者の生活の場「びわこ学園」のドキュメンタリー映画『わたしの季節』など、優れた作品を撮り続けている。

その小林監督が、ウガンダ以来の友人であり、ケニアの現地NGO「モヨ・チルドレン・センター」を主宰している松下照美さんの協力を得て、首都ナイロビから北東に少し離れたティカという街の路上で生活をする子どもたちを撮り終えてきた。

冒頭、一人の少年が小川に向かい、服を脱ぎ水浴びをする。少年の輝く黒い肌。そして青空。写真集「トゥスビラ――希望」を思い出させる美しい映像だ。しかし映像はすぐ、子どもたちの日常を映し出す。物乞いをする少年。空き缶やプラスチック容器を集め、それを売ることで幾ばくかの金を手にする少年たちのグループ。ストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちをテーマとしたドキュメントでは定番の映像だ。しかし小林監督の視線は、そうしたステレオタイプ化された映像を追い続けはしない。

映画は何人もの子どもたちの実家へと戻る様子を繰り返し映し出す。「モヨ」の松下さんも子どもに付き添っている。もちろん子どもたちが帰る家の状況も様々だ。それでも共通したものがある。親たちは「なぜ家を出て路上にいくのかわからない」「虐待などしたことはない」「なぜ?」「なぜ?」。その言葉だけが繰言のように語られる。親が同じ言葉を喋りまくるとき、カメラは子どもの表情をしっかりととらえる。いっさいの感情をなくし、無表情なままのその顔を。そして何度も子どもたちに付き添い、結局はすぐに路上に戻るという同じ結果を見続けている松下さんの表情。

あの子どもたちの感情のない表情は、この作品でしか知ることはできないだろう。一人ではない。何人もの子どもたちが同じ表情となる。丹念に子どもたちを見つめ、追ってゆくことではじめて得られる映像がある。『チョコラ!』の中にはそうした映像がちりばめられている。

小林監督は、感情をあおる映像やナレーションで観る側を誘導したり、分かったつもりになれるような作品作りは決してしない。それはこれまでの作品も同様だった。子どもたちの姿を、公開された映像の裏側から読み取る「想像力」を持つことを求めているように思える。わたしたちは、子どもたちの語る言葉や姿から、子どもたちのことを知ろうと努力するしかない。監督は答えを与えてはくれない。わたしたちは、わたしたち自身の体験を通して、その答えを見つけ出そうとするしかない。見つけ出すことのできない答えであっても。

美しく、忘れることのできない映像もある。
ある子どもが親との話し合いのために実家に帰り、農業を営んでいる庭が映される。左側で丸まって寝ている犬。中央に二人の妹と弟。その間で食事を取っている猫。右側では鶏が首を上げている。それはまるで絵画のようだ。その情景ののち、路上生活をしている少年が甥っ子を前に抱き「撮ってよ」と言う。単純に観ていれば、ただそれだけかもしれない。けれど少年がなぜ甥っ子をカメラの前につれてきて、ネックレスをつけ、カメラにおさめてくれと頼んだのか。少年の気持ちを考えると、たまらない気持ちとなってしまう。

また、HIVに感染し、子ども二人を連れてスラムに引っ越してきた若い母親。危険が潜む場であるスラムだが、若い母親は言う。「ここのほうが気兼ねなく生活できるの」。そしてある晩、夜の仕事をわざわざ休み、子どもたちのために夕食を用意する。いつもより多めのご馳走。しかもいつも夜は仕事でいない母親がいる。カメラのライトの中での家族3人の「まつり」。

食事が終わり、ひとつのベッドで3人が寝付く。毛布に大きなふくらみと、小さな二つのふくらみがある。静かな時間が流れる。外からはスラムの喧騒がもれてくる。しかしこの暗い部屋の静かな時間こそが、どれほど大切なのだろうか。思わずファウストの「時間よ止まれ。お前はあまりに美しい」という言葉を思い出していた。たとえわたしにとっても悪魔との契約の言葉であっても、やはり発してしまっていたかもしれない。
明日の朝、母親はエイズを発症するかもしれない。幼い姉弟は、路上へ出てゆくかもしれない。明日という日もまた、今日と同じ絶望に包まれているだろう。それでもその一瞬の「しあわせな瞬間」。その「瞬間」をもてたことが、子どもたちにとっても、母親にとっても、どれほどこれからの「生」の中で大切なことだろう。

そして食事風景の中で、小林監督や撮影の吉田さんと、被写体であるティカの人たちとの関係がはっきり見える言葉があった。
母親に「食前のお祈りをしなさい」と促されて10歳の長女は、おしゃまにお祈りを始める。その中の言葉に「コバ(小林監督)の病気がよくなりますように」とあったのだ。監督自身、翻訳され日本語字幕がつけられたとき、初めてこの少女の祈りの言葉を知ったという。監督はその瞬間衝撃を受けたと語る。「映画を撮ることに頭がいっぱいだった。はたして私は映画の中にいる子どもたちを祈ったであろうか」

小林監督の個人的なこととなってしまうが、数年かけてびわこ学園での生活を撮りつづけている時から既に腎臓を病み、脳梗塞も起こしていた。びわこ学園の重度障がいのある人から「体は大丈夫?」と気遣いを受けたことが、監督にとり大きな力となったと語られていた。そしてケニアでも、同じ想いが10歳の少女から発せられていた。すぐにでも人工透析を始めなければならない情況で、しかも脳梗塞まで患い、それでもケニアの子どもたちを撮るという強い気持ちが、ティカの子どもたち、若いHIV感染者となった母親、そしてその10歳の長女にも通じていた証でもあろう。

スクリーンの中のケニアの子どもたちを見つめながら、メキシコやブラジルの子どもたちのことが思い出された。今なにもできない自分に涙が出た。「俺は君たちを見捨てたのではないぞ!」そう叫びだしたかった。そんな気持ちとなったのも、この作品『チョコラ!』が、ケニアの「ストリートチルドレン」を通して、日本を含め、すべての子どもたちの問題を描いている作品だったからだろう。わたしたちが知り、見、感じなければならないことを提起している作品だった。

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