PRODUCTION NOTE
約5ヶ月の現地取材
そして1年半にわたる編集期間
撮影は2006年6月~11月の約5ヶ月間。素材テープは120時間に及びました。当初はモヨ・チルドレン・センターと共に動いていましたが、"このままでは映画にならない" との思いを強くし、通訳と共に丸腰で街中での撮影を強行。アジア人が居るというだけで話題を呼ぶ土地柄。カメラを取り出しただけで人だかりが出来るような状況の中、数ヶ月にわたる粘り強い連日の取材の末、街の人々も最後にはカメラを自然に受け止め、子どもたちにも仲間のように受け入れられるような存在になっていきました。この映画で重要な位置を占めるシーンのほとんどは、取材の最後の数週間のうちに撮影されたものです。
そして帰国後に待っていた編集作業は、更に困難を極めることとなります。子どもたちが話す言葉は英語・スワヒリ語のみならず、ティカ周辺の部族語であるキクユ語、更にはそれらがミックスされた独自の新言語 "シェン" など多種多様。日本在住の人材だけでは対処不能である事が判明し、急遽現地からNGOのスタッフを呼び寄せ、ビザの有効期限ぎりぎりの3ヶ月間編集室に缶詰め状態で、全てをまず英語に翻訳する作業を行いました。この時の翻訳テキストはA4で約1000ページにものぼります。これを元に日本語字幕を付けていきながら作ったOK抜きの尺が約12時間半。そこから様々な構成を試し、詰めていきながらついに2008年春に完成を迎えました。
制作中に話を聞いた業界関係者の多くが「言葉も分からない日本人のロケが成功するわけがない」「ちょっと無謀ではないか」「言葉の問題にそんなに手間暇かけても意味がない」と、半ばあきれ顔で感想を漏らしていました。しかしそんな、あきれる程愚直に算段なく進められた制作方針だったからこそ「奇跡」の映画が生み出された、と言ったら言い過ぎでしょうか。
腎不全の病を抱えながら
文字通り「命を賭けて」続けられた映画制作
2002年5月に脳梗塞で倒れた小林茂監督はその後、原因が腎臓の病にあることを知ることになります。2006年春、既にその機能を停止しようとしていた腎臓を抱えた小林監督にとって、ケニアでの長期取材は文字通り命がけの決断でした。しかし、人工透析を始めてからでは海外取材は不可能という思いから、もしもの時にはすぐに透析に入れるように動脈と静脈をバイパスする "シャント" を作る手術を先にして、万全の体制で現地入りをすることになります。ケニアでは予想以上にしっかりとした医療設備とJICA医療班のケアを心強く感じながらも、難航する撮影、極度のストレス、ポンコツ車で悪路を長時間走るような毎日を送るうち、次第に体調を崩し、ついには慢性的に血尿が出るほどにまで悪化します。そして無事に帰国した後、すぐに容態が急変し人工透析を開始。その後の週3日透析をしながらの編集生活中もなかなか容態が安定せず、度々長期の入院を繰り返す事になります。そして2008年3月。いよいよ編集が佳境に入り、ついに関係者全員が「これだ!」と思えるものが見えたその夜、突然また以前の脳梗塞の時のような感覚を訴え、急遽救急車で搬送。幸いにも事無きを得ましたが、編集中は常に耳鳴りやめまい、発熱や不眠などと闘いながらの命がけの映画制作となりました。一方で監督自身は冗談半分に、「透析患者初の映画監督」として名を売れるのではないかと目論んでいるようです。
子どもたちの気持ちをそっと見守る
親指ピアノの音
編集の最終段階まで、実は音楽のない映画として作られてきた「チョコラ!」。しかし、アフリカの民俗楽器「親指ピアノ」との幸福な出会いが、この映画に新たな輝きを加えてくれました。
話の発端は小林茂監督が撮影中に休暇で訪れたザンジバル島。ちょうど誕生日を迎えた監督の為に、宿のご主人が特別に呼んでくれたミュージシャンが、タンザニアの親指ピアノ「リンバ」の奏者でした。すぐにその繊細かつパンチのある音の虜になった小林監督、帰国後も奏者から譲ってもらったリンバを我流でつま弾きながら、アフリカに思いをはせるようになります。編集の最終段階、音楽の有無を決断する瞬間になって、小林監督から出てきた案がこのリンバの音でした。日本で奏者が見つからなければ最後には自分が弾く、と言いながら。そして幸運にも、このリンバの奏法をタンザニアの大家の下で修得し、プロの親指ピアノ奏者として世界的に活躍するミュージシャン・サカキマンゴー氏の全面的な協力を得られることとなります。必死に生きる子どもたちをそっと近くで見守っているような、そんな美しくも淡く切ない音楽が映画全編を鮮やかに彩っています。