Review

 小林茂監督の『チョコラ!』は、二〇〇六年、ケニアの地方都市ティカの路上で生活する子供達を撮ったドキュメンタリーである。

 学校をサボり、シンナーを吸い、たばこをふかす子供達と、密造酒をつくり、売春に出かける母親達とを、小林は、同一の地面の上に立つまっすぐな視線で捉えている。

 ねぐらに借りたどこかの床下のようなところから早朝ごそごそと起きだし、街中を歩き回って路上の鉄やプラスチックの屑を拾い集め、回収業者に持ち込んで換金し、その稼ぎで食い物にありつく子供達――学齢期の、当然にも手に職を持たない子供達の自活する姿がカメラに収められている。ここには、ひとが生きていくということの裸形がある。彼らは、通常その年代の子供達がそれによって保護される膜のようなもの無しに、直に、剥き出しで世界に対している。その年齢で自立して世の中を渡っていく子供達の、緊張に引き締まった表情の輝きが映画『チョコラ!』をささえる。

 「チョコラ」と、スワヒリ語で「拾う」を意味するという侮蔑的響きをも持つ呼び名でひとしなみに名指され、群れて行動することの多い彼らは、しかし、個々のひとりひとりにカメラを向けていくと多様な顔をみせはじめる。

 スラムで母親ひとりに育てられ、その母親に安定した仕事がなく、密造酒製造販売や売春に収入を求めざるを得ない場合、家庭に、学齢に達した子供の居場所はなくなり、あるいは路上に出ざるを得まい。このような、主として貧困に路上生活の原因を求めうる場合のほかに、一方で、豊かな家庭の子供の路上生活もあることを映画『チョコラ!』は見逃していない。
生垣を巡らせた敷地に建つ何棟もの建物。この見るからに裕福そうな実家に路上から帰って来た息子は、父親にこれからの事について相談するつもりであったが、農作業の仕事を中途で引きあげてきたらしい父親は、久しぶりに会った息子に発言のいとまも与えず、一方的に息子の不実を言い募る。息子は能面のような表情となって早々に心をとざし、結局再び路上に戻る。これは、アフリカに限らず、どこにでも見られる親子の断絶だ。

 路上生活するアフリカの子供達とみれば原因はアフリカの貧困、と短絡する紋切り型の思考とはこの映画は無縁である。だが、貧困層から出てくるチョコラとヒッピーのようなチョコラが並列されるだけでは、両者を含むチョコラ全体の構造は不分明だ。

 映画の終半、路上生活する子供達の物語に、HIVに感染したシングルマザーの物語が挿入される。映画『チョコラ!』にはナレーションが使われていないので、何の説明もなしにカメラはこのシングルマザーの生活するスラムに入っていくことになる。映画の流れとしては、路上の子供達の母親の住むスラムには既にカメラは入ったことがあり、このたびも再びスラムに戻ったのかなと思わせ、たいした違和感も感じさせないが、見終わってあらためて考えてみると、路上生活する子供達の物語とこのシングルマザーの物語がお互いどのような関係をなすかは明確でない。

 ここで描かれるのは、仕事を探して高級住宅街へ出かけ、例えば洗濯を頼まれれば洗濯の賃仕事をし、家にあってはまだ幼い子供達の面倒をみ、薬をのみといった母と子で暮らす日常だ。それは平凡で、変わった事の起きるわけではないが、自身の命に限りがあると自覚した人間の、二度とおとずれないかも知れないと覚悟した日常、いとおしむように過ぎる日々である。母子三人がお祈りの後、「野菜も食べなさい」「いやだ」と言ったたわいもない話しをしながら夕食をとる。夕食後ベッドに入った幼い子供を寝かし付けにいった若い母親に、子供は「抱っこ」と甘える。ふとんにもぐり、母を得てはしゃぐ幼子のあげる声と、ひとつふとんに入った母と幼子の三人のつくりだすふとんのボコボコとするうごめきをじっと見つめる噛み締めるようなショットの、その長さに、母子が一体となって生きうる短い幼児期の蜜のように甘い幸福への祝福と、これを永かれと願う祈りと、永続することはないと予見せざるをえないせつなさをみることができる。母親は子供を寝かせた後、生活のため夜の仕事に出かけなければならないはずだ。

 この後、カメラは再び路上の子供たちに戻る。

 夜のとばりがおりた頃、子供達が路上の片隅に集まって来、火を熾す。暗闇に燃える赤い炎が神秘的だ。この火で夕食をつくり、皆いっしょにわいわいがやがやと分け合って食べる。食事が終わるや、だれかがタイコをたたきはじめ、そのリズムに自然と歌がのせられ、身体も、ゆれる炎をうけて舞われる。ともかくも、きょう一日、無事に過ごすことができた事を自ら祝福するかのように。

 映画『チョコラ!』は、そこに「構造」を求める者にはもの足らないかも知れないが、ひとが生きるということの原初の形を描くことにより、見る者を励ます。

2010年3月21日
岡山映画祭2009報告集より

はじめての海外旅行はケニアだった。バブル経済初期、軽薄な大学三年生だった私はまわりの友人たちがヨーロッパとアメリカばかりに行くのが気にくわず、「だったら自分がほかのところに行くしかない」という無根拠な思い込みで飛行機に乗った。着いてみたら予想外のことばかりだった。想像していた「アフリカ」がないのである。これは考えてみれば当然のことで、こっちが勝手に像をえがいていても、そのとおりの現実がむこうにあるはずがない。高層ビルがそびえたつナイロビ市街を歩きながら、むしろこの落差こそ旅行の醍醐味なのだと自分を納得させようとした記憶がある。

ドキュメンタリー監督の小林茂さんによる新作「チョコラ!」を見た時、この感覚を思い出した。ナイロビから四五キロほど離れた人口十万の地方都市ティカに暮らすストリート・チルドレンと、彼らを支援するNGOを五か月にわたって取材した作品である。これを見るとアフリカの子どもたちに対して持っていた像はあっというまにくずれる。悲惨な現実のなかでも失われない純真な心......などかけらもない。画面に出てくる子どもの多くはシンナー中毒である。食事中でさえ吸っている。嘘もつけば、盗みもする。仲間を殴る。

ところが街中をうろつく子どもたちをすべて固有名詞で呼びつづける小林さんの微細な画像を見ているうちに、彼らの無軌道な行動がしごく当然のように思えてくるから不思議である。彼らの行動を正当化するつもりはないが、批判する気もうせてくる。シンナー中毒の九歳の少年を前にして、私たちはその子自身に対して責任を問うことができるだろうか。彼が路上でシンナーを吸わなければやっていけないような状況をつくった人間のほうこそ批判されるべきではないのか。

ところが本作にはそうした社会構造についての指摘もない。エイズや貧困についての深刻な議論も登場しない。抽象的な理屈をあえて封印し、野宿する子どもたちが汚いミルク缶で炊いたトマトピラフ(これがけっこうおいしそうだったりする)を奪い合う場面をていねいに撮影する。そうした描写によってかえって大きな社会的な問題が私たちにつきつけられる。自分の先入観が具体的な現実描写によって変わっていくのがわかる。全体にただようユーモアのセンスによって非常に「見やすい」作品になってはいるが、背後の過酷な現実は伝わってくる。ドキュメンタリーの王道的手法の勝利ともいえる作品である。

ケニアのストリートチルドレンを描いた作品『チョコラ!』の完成直前試写会に参加させていただいた。"チョコラ"とは、路上で生活するストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちへの蔑称だそうだ。けれど作品を観れば、なぜタイトルを『チョコラ!』としたかがわかっていただけるだろう。

昨年夭折した佐藤真監督の『阿賀に生きる』をご覧になった方もいらっしゃると思う。新潟水俣病を生んだ阿賀野川に生きてきた人々の暮しを、ともに生活しながら撮りあげた作品だった。そのカメラを回し、佐藤監督とともに作品を完成させたのが、今回紹介する『チョコラ!』の監督、小林茂さんだ。

1996年、ウガンダのストリートチルドレンと呼ばれている子どもたちをフィルムに収め、新宿で写真展を開催したとき、その子どもたちの「美しさ」に圧倒された。誤解を受けるかもしれない。子どもたちは過酷な状況の中で生き抜こうとしている。それを「美しい」と表現することは不謹慎かもしれない。けれど小林さんの写真は、そうした子どもたちの「美しさ」を表現していた。「トゥスビラ――希望」という写真集も発行されている。その後、北海道の炭鉱を舞台とした映画『闇を掘る』の撮影を担当。そのとき出会った、障がい児も健常児もともに過ごせる学童保育所「つばさクラブ」の記録『こどものそら 三部作』を監督。また、重度障がい者の生活の場「びわこ学園」のドキュメンタリー映画『わたしの季節』など、優れた作品を撮り続けている。

その小林監督が、ウガンダ以来の友人であり、ケニアの現地NGO「モヨ・チルドレン・センター」を主宰している松下照美さんの協力を得て、首都ナイロビから北東に少し離れたティカという街の路上で生活をする子どもたちを撮り終えてきた。

冒頭、一人の少年が小川に向かい、服を脱ぎ水浴びをする。少年の輝く黒い肌。そして青空。写真集「トゥスビラ――希望」を思い出させる美しい映像だ。しかし映像はすぐ、子どもたちの日常を映し出す。物乞いをする少年。空き缶やプラスチック容器を集め、それを売ることで幾ばくかの金を手にする少年たちのグループ。ストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちをテーマとしたドキュメントでは定番の映像だ。しかし小林監督の視線は、そうしたステレオタイプ化された映像を追い続けはしない。

映画は何人もの子どもたちの実家へと戻る様子を繰り返し映し出す。「モヨ」の松下さんも子どもに付き添っている。もちろん子どもたちが帰る家の状況も様々だ。それでも共通したものがある。親たちは「なぜ家を出て路上にいくのかわからない」「虐待などしたことはない」「なぜ?」「なぜ?」。その言葉だけが繰言のように語られる。親が同じ言葉を喋りまくるとき、カメラは子どもの表情をしっかりととらえる。いっさいの感情をなくし、無表情なままのその顔を。そして何度も子どもたちに付き添い、結局はすぐに路上に戻るという同じ結果を見続けている松下さんの表情。

あの子どもたちの感情のない表情は、この作品でしか知ることはできないだろう。一人ではない。何人もの子どもたちが同じ表情となる。丹念に子どもたちを見つめ、追ってゆくことではじめて得られる映像がある。『チョコラ!』の中にはそうした映像がちりばめられている。

小林監督は、感情をあおる映像やナレーションで観る側を誘導したり、分かったつもりになれるような作品作りは決してしない。それはこれまでの作品も同様だった。子どもたちの姿を、公開された映像の裏側から読み取る「想像力」を持つことを求めているように思える。わたしたちは、子どもたちの語る言葉や姿から、子どもたちのことを知ろうと努力するしかない。監督は答えを与えてはくれない。わたしたちは、わたしたち自身の体験を通して、その答えを見つけ出そうとするしかない。見つけ出すことのできない答えであっても。

美しく、忘れることのできない映像もある。
ある子どもが親との話し合いのために実家に帰り、農業を営んでいる庭が映される。左側で丸まって寝ている犬。中央に二人の妹と弟。その間で食事を取っている猫。右側では鶏が首を上げている。それはまるで絵画のようだ。その情景ののち、路上生活をしている少年が甥っ子を前に抱き「撮ってよ」と言う。単純に観ていれば、ただそれだけかもしれない。けれど少年がなぜ甥っ子をカメラの前につれてきて、ネックレスをつけ、カメラにおさめてくれと頼んだのか。少年の気持ちを考えると、たまらない気持ちとなってしまう。

また、HIVに感染し、子ども二人を連れてスラムに引っ越してきた若い母親。危険が潜む場であるスラムだが、若い母親は言う。「ここのほうが気兼ねなく生活できるの」。そしてある晩、夜の仕事をわざわざ休み、子どもたちのために夕食を用意する。いつもより多めのご馳走。しかもいつも夜は仕事でいない母親がいる。カメラのライトの中での家族3人の「まつり」。

食事が終わり、ひとつのベッドで3人が寝付く。毛布に大きなふくらみと、小さな二つのふくらみがある。静かな時間が流れる。外からはスラムの喧騒がもれてくる。しかしこの暗い部屋の静かな時間こそが、どれほど大切なのだろうか。思わずファウストの「時間よ止まれ。お前はあまりに美しい」という言葉を思い出していた。たとえわたしにとっても悪魔との契約の言葉であっても、やはり発してしまっていたかもしれない。
明日の朝、母親はエイズを発症するかもしれない。幼い姉弟は、路上へ出てゆくかもしれない。明日という日もまた、今日と同じ絶望に包まれているだろう。それでもその一瞬の「しあわせな瞬間」。その「瞬間」をもてたことが、子どもたちにとっても、母親にとっても、どれほどこれからの「生」の中で大切なことだろう。

そして食事風景の中で、小林監督や撮影の吉田さんと、被写体であるティカの人たちとの関係がはっきり見える言葉があった。
母親に「食前のお祈りをしなさい」と促されて10歳の長女は、おしゃまにお祈りを始める。その中の言葉に「コバ(小林監督)の病気がよくなりますように」とあったのだ。監督自身、翻訳され日本語字幕がつけられたとき、初めてこの少女の祈りの言葉を知ったという。監督はその瞬間衝撃を受けたと語る。「映画を撮ることに頭がいっぱいだった。はたして私は映画の中にいる子どもたちを祈ったであろうか」

小林監督の個人的なこととなってしまうが、数年かけてびわこ学園での生活を撮りつづけている時から既に腎臓を病み、脳梗塞も起こしていた。びわこ学園の重度障がいのある人から「体は大丈夫?」と気遣いを受けたことが、監督にとり大きな力となったと語られていた。そしてケニアでも、同じ想いが10歳の少女から発せられていた。すぐにでも人工透析を始めなければならない情況で、しかも脳梗塞まで患い、それでもケニアの子どもたちを撮るという強い気持ちが、ティカの子どもたち、若いHIV感染者となった母親、そしてその10歳の長女にも通じていた証でもあろう。

スクリーンの中のケニアの子どもたちを見つめながら、メキシコやブラジルの子どもたちのことが思い出された。今なにもできない自分に涙が出た。「俺は君たちを見捨てたのではないぞ!」そう叫びだしたかった。そんな気持ちとなったのも、この作品『チョコラ!』が、ケニアの「ストリートチルドレン」を通して、日本を含め、すべての子どもたちの問題を描いている作品だったからだろう。わたしたちが知り、見、感じなければならないことを提起している作品だった。

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